かたい桃の香り


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 桃はかたい方が良いか、柔らかいほうが良いかと聞かれたら、かたい方が好きかもしれません。甘さの問題ではなく、香りの種類が全く違います。
 よく熟れた柔らかい桃は、はじけるような甘い香り、時に「ピーチガムのような」はっきりと主張する香りがします。かたい桃は「頼りない青いばらの香り」です。青いばらとは、青い花びらをしたばらのことではなく、ばらの香りの中でも濃厚な香りでなはく、青臭い香りの種類のそれです。
 そう。中学生の頃に買ってもらったグラサンボンのコロンを思い出しました。(GIVENCHY・GRANT SAN BON)磨りガラスの瓶に薄い桃色で、あの特徴のある、まあるい筆記体で書かれた文字から香る、無邪気な甘さと、頼りない未熟な色気。かたい桃の情景と一致します。
 私の父親は根がロマンチストで、ばらを育てています。当然桃も、「かたい方」を好む人間です。桃の産毛が口内の粘膜に鈍く当たるのも気にせず、かたい桃にそのままかぶり付いて「ああ、ばらの香りがする。桃は、ばら科だから当然のことだけど」といつも言います。
 今年ひとつだけかたい桃に行き当たりました。皮を剥いてみると、中の身まで全く均等に桃色に染まっている。これはかたい桃に稀にあることです。白桃でもなく黄桃でもない、桃色をした桃です。
 夏の水菓子は、草野啓利さんのガラスプレートに盛り付けます。上から見ると変形した水溜りのようなかたちをしています。結婚した夏に草野さんの工房を訪れた時、草野さんが工房の奥からこのプレートを持ってきて、乱暴に新聞紙にくるんで私の目の前に差し出してくれました。その時の優しくはにかんだ草野さんの表情を今でも覚えています。暑いあの日、視線の奥に見えた工房の空気はゆらゆらと蜃気楼のように熱く、ガラスそのものを思わせました。