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落合陽一の個展

August 3rd, 2020

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*この記事はとても長いので、芸術の話や面倒な思想の話が嫌いな人は、最初の3つのパラブラフとページ下の「おたのしみ脚注」からチェリーピックして読むことを許可する。私からの最大限の譲歩と好意をお受取りください。また、このパン職人たちの画は落合陽一氏の作品ではありません。

 

 

先日、夫の姉Aさんから「午後暇ならお茶でもしよ〜」とラインが来て、昼ごろAさんがウチにやってきた。キムチチヂミ1を焼いて食べてから、どこいく〜とかいいながら猫と遊んでダラダラしていたらもう15時だ。ココ最近はこんな時代なので地元の駅のショッピングモールや百貨店2を冷やかして過ごしていた。けど「化粧品がみたいような気がするような」というAさんの意見3で「フタコ4でもいくか〜大っきらいだけど」ということになりクルマを246へ走らせた。多摩川の手前の側道に入る分岐路のところで、なぜか「渋谷にも行けるけど」と私はひとり呟き、Aさんの意見5を聞きもせず、左に出したウインカーを止めて246を直進した。ドライブしたい気持ちがあった。

 

車中で会社での出来事などをぺちゃくちゃ喋っていたAさんの「化粧品がみたいような気がするような」気持ちは渋谷に着く頃にはすっかり無くなっており、それに代わり「クレープが食べたいような気がする、いや絶対食べる」という舌になっていた。クレープよりホルモンが好きなAさんにしては珍しい。クルマを西武のP6にぶち込み、センター街でクレープを食べ7、ぶらぶらしていると、公園通りの付け根の元マルイ(現MODI)で落合陽一の個展をやってることを思い出し、行くことした。Aさんは「大人かわいい女子」なので落合陽一とかに疎い人だが、かのじょが良く食事をするエグゼクティブのおじさまが落合陽一の開成の先輩で、最近その方の話の中に落合陽一が出てきたとかで、彼女にとっても落合陽一はタイムリーだったのだ。

 

落合陽一の個展は、いろんなごたごた抜きに、本当に素晴らしいものだった。皆さん知っての通り、答えのないような漠然とした現象(エクスタシイ問題8)に、問いや感情をぶつけ続けている私で、世の中のほとんどのことに首をかしげたり憤ったりしている私だが、色々なところで見聞きする落合さんの言葉は、いつなんどきでもやさしく私の腑に落ちてきた。

 

 

* * *

 

 

(ごたごた始まります)

*途中で嫌になった人は、私からの最大限の譲歩と好意に基づき、次のアスタリスクまで飛ぶことを許可する。

 

 

かれは時代きってのサイエンティストだと思うけど、そしてアーティストだけど、何よりも詩人だと思う。詩は、芸術のはじまりとなった場所9だから落合さんが詩人であっても不思議はないんだ。かれの切り取る言葉とシーンは見事に調和し、私の思考をアートさせる。いや、調和ではないな、言葉による補足が作品に形を与えているように、最初私はそんなふうに作品を鑑賞していた。落合さんは、恐らくはそうなることを避けるため、あえてキャプションを「とってもとっても読みづらく」配置している。

 

しかし残念ながら?この人は言葉による表現が大層巧い。語る内容の抽象度が高ければ高いほど、文章の巧さは引き立つ。詩人に近づく。
落合さんにとって写真を撮ることは、このような行為だ。
以下は展覧会で掲示されていた文章の中の一部の抜粋です。読むと深く理解できます。難しい話ではないです。

 

 

”スナップショットが好きだ.今この瞬間を捉えてそれを過去にしてゆく作業の中で,切り取った一瞬をコンテクスト10で結んでいく.時間と空間で結実したひとつなぎの現実をキャンバスにして,その瞬間と瞬間の光のよせ集めで何かを描き出そうとする作業は,手触りのある現実と思考を行き来しながらも現実という共有物を使いながらコンテクストを紡ぐ作業だ.なぜ今この写真がこの場所で選ばれているんだろう.これは誰の手なんだろう.何につかう装置なんだろう.これは何をしているんだろう.この形や光が意図するものは何なんだろう.絡みついた問いかけを繰り返して,情念と現実が反芻して練り上げられたコンテクストを,あえてイメージのみを現前させながら描き出してゆく.批評性や社会性のあるものだけを芸術と呼ぶ安寧な領域のことを忘れ,絵を書くようでいて物語を紡ぎ,物語を紡ぐようでいて,あくまで現実の世界や社会の中から見つけてきたものだけを現前させる.あるがままの現実を具材に,言外のコンテクストを追いかけるスナップ写真の形を愛している.”


 

 

そのようにして切り取られた、鯨の歯(”現前の具材”)の写真にはこのようなキャプション(”物語”/”言外のコンテクスト”への道標)がある。

 

”歯鯨の環世界を覗いてみたい.音と光の波の合間に生きる日々の中で,鯨の身体性に思いを馳せる.”11


 

 

瞬間、私は以前どこかで書いた、ダイアン・キートンが語ったアル・パチーノのプレーンさ12について思い出していた。そこで私は「時の中に光が溶け込み、柔らかく曲がり、更には可逆となり、何もかもを可能にしている時代で、不可能でありたい、と出し抜けに思った。」と書いた。歯鯨はアル・パチーノに他ならなかった。

 

 

* * *

 

 

ここまで、かれの紡ぐ物語(言葉)の方に奪われて、物語を鍵にして作品に入っていた私の時間が、一瞬張り付いた瞬間があった。蝶を写した一枚のプラティナプリントの、4メートルほど手前の地点だった。

 

俄に皮膚が泡立ち、その後2秒くらいで急に視野が狭まり、同時に聴覚がシャットアウトする。その間は呼吸もしていないらしく、気づくと苦しさを伴っている。

 

MODIは元マルイだった館で、この展覧会は、その2階をぶち抜きにしていた。
躯体が露出し、建物の裏側から、どこにも繋がっていないコードの先端が枯れた植物のように生えている。建設同時の手書きの指示のバランス、色ともに、この壁面はこのぶち抜きの廃墟の中でも、一等美しく廃れ、「もっとも価値のある面」と判断されたに違いない、と直感したら、次の瞬間そこに一羽の蝶が浮かんでいるのがみえた。

 

感情が身体を制し、もう泣きそうだった。
廃れた場所に蝶が飛んでいるのってなんて美しいんだろう13

 

この廃墟は、また近いうちに新しい廃墟になって
この建物が立っている土地自体なくなるかもしれない
けど、この写真は500年後もそのままの姿でいるだろう14
2520年の世界では、この蝶はもっと美しいんだろう
ああ、ああ。15

 

しかも不思議だったのは、近寄ってから読んだキャプションだった。
タイトル/ 青
キャプション/ “青を感じるための物質的な追憶”

 

その瞬間、「この蝶は青だと思っていた」という自分の感覚が思い出された。
それは作品を見ているときから思っていたこととは違う、瞬発的な思い出し方があった。
さらに不思議なことにAさんも同じことを後から私に言った。
落合さんは、どんな手品を使ったんだろう。

 

さらにさらに、不思議なことに、この文章の校正のために夫にこの話をしていたら、「デジャヴってこと?」と聞く。「そうそう、そんな感じ」とか言ってたら「この展覧会自体がデジャヴをテーマにしてるんだよね?」と摩訶不思議なことを言ってくる。
言葉を失っていたら、受付でもらった紙に「未知は追憶できないが、思い出せないデジャヴュ=既視感を探すと、未知への追憶になるのではないかと個人的には思っている」と書いてある…。

 

そんなの知らなかったよ(読んでないだけ)。
真面目にどんな手品つかったの。

 

 

* * *

 

 

作品の横にキャプションとして”言外のコンテクスト”への道標が示すことは、その作品に入ってゆく鍵を渡すことだ。
作品を見た人は鍵を受け取り、丁寧に鍵を鍵穴に入れ込み、回して、扉が開き、その作品の中へ入ってゆく。恐る恐る。そして作品の中になんとか自分でパス16を作り、出てくる、といった感じ。この感じは、皆さんおなじみではないだろうか?

 

けれど、私の体験の中で、道標がない場合の方がキョーレツな体験になりやすい。
俄に皮膚が泡立ち、その後2秒くらいで急に視野が狭まり、同時に聴覚がシャットアウトする。気づくと呼吸もしていないので気づくと苦しさを伴っている。しばらくすると、この感覚すべてが多幸感や充実感に変わり、そして悲しくなる。幸せな悲しみ。幸せで泣いているのか悲しくて泣いているのかわからなくなる。そして数時間後、なぜか元気になっている。

 

私はこの感じを以て、これをエクスタシイと呼んでいる。脱魂。
その時、その作品は本当の意味で自分の所有物になる。

 

けれども。
今ここ、コメダ珈琲店の2階の席に、パン職人たちの働く姿を描いたテラコッタの画がある。
不思議なことに、この数時間、この絵を私は100回以上見ている。
書きながら思考が絡まりつくと、この絵を見る、というルーティンが100回以上続いている。
その都度、このパン職人たちが、私をリセットしてくれる。
だから、皆さんにもこの絵を紹介したいと思った。

 

 

最後になるが、落合陽一の個展にはたくさんの花が届いていた。
その最左上位に、父親である落合信彦の花が配置されていた。

 

 


 


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エクスタシイについて

June 15th, 2019

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渋谷のかきもの
2019年6月10日(月)14:10-14:55放送
https://note.mu/shiburadi/n/na8d44b7fa1dd

 

最近私に会った人は、クドクドクドクド私の思想を聞かされて、最後に「人工甘味料三兄弟1はだめ!!」と言われる。「夫の都合」という呪縛から自分を開放し、この夏をもって大阪生活に終止符を打つことを決意してからというもの、そして宮台真司の法外の享楽という考えに出会ってからというもの、目に入るもの耳に入るもの全てが輝き、自分が自分に戻る、いや更に次の自分になっていくようなエナジーに満ちております。

 

そのへんの話をラジオで話しました。上記のURLのリンクから聴けますのでどうぞ。

 

しかし振り返るとたっと2年だった大阪生活は、私の人生に来るべくして来た機会だった。それまでいたクラウドからひとり知らない土地に引っ越ししたことは、激しい孤独を伴ったが、何よりも自分を取り戻す機会となった。

 

大阪の「鉄の民家」という私塾についてはインスタグラムに何度か書いているが、大阪へ転居する半年前に得た縁だった。そのまま導かれるように転居が決まった。鉄の民家の松元先生とは最初に電話でお話した時から、やたら話が合うなと思っていたが、その後のシンクロニシティは凄まじいものがあり、話し込むうちに、自分の頭が彼女の中に入っているのか、彼女の頭が私の中に入っているのか、わからなくなることもしばしばだった。この人と彼女の家族との出会いは大阪生活の最重要事項となった。いつも温かく家族ぐるみで私を支えてくれた。人生で何度もない不思議な出会いとなった。

 

仕事を一緒にしている夫の母との関係も、この2年間お互いに離れたことで大きく形を変え、新しい関係に突入しはじめた。大阪にくる直前は距離が近すぎた。それはお互い無我夢中でお互いを知ろうと努力する期間だった。けれどもこの2年の期間でそれぞれが自分の考えを持った上で、お互いの意見を尊重できる関係に変わった。私も、もう闇雲に夫の母に自分の考えや態度やを合わせることは無くなり、今では夫の母の前で嫁というTPOをわきまえることを辞めた。これが出来て心の底から母に感謝できるようになった。それよりもっと前から、この私と母の関係の周辺で、私を気遣ってくれた叔母たちや夫の父〈お父さんは写真家なので写真やカメラの話で最初から比較的話が合った)、そして夫の姉(美容おたくで有名な)には今から恩返しをしないといけない。

 

また、変化すること、順応すること、移動すること(なぜか知らんが移動しまくりの2年間だった)を強要された。だがなんとか耐えたら、それがへいちゃらになった。しかし今年に入ってから激化し、金銭的、物理的に破綻をきたし始めていたので、このタイミングでホッとしている面もある。

 

面といえば、大阪の最大の魅力はうどんだった。関西ではストレートの出汁のパックとソフト麺がスーパーや商店に売っている。関東の人は濃縮のそばツユが小さなパウチに入っているやつを想像したかもしれないが、それではなく、関西風のうどんのおツユが、本当にストレートで一杯分入っているので容量としては糸こんにゃくのパックくらいである。私は近所に阪急オアシスという阪急系列のスーパーがあったのでそこのプライベートブランドのツユと、石田製麺所というところのうどんとそばのソフト麺をストックしていた。どちらも冷凍が可能だ。シンプルにやるならこのツユに松山あげ(南関あげでもOK)、太く斜めに切った九条ねぎを入れて煮立てるだけ。ツユに軽く味がついているのでこれだけでいい。大阪に越して来て1ヶ月くらいのころだったが、腰を抜かすほど美味しかった。夫も腰を抜かした。今まで食べていたうどんってなんだったんだろう。なぜ家で、なぜこんなに簡単に美味しいものが食べられるんだろう、としばらく疑問で頭が働かなかった(箸は動いた)。むろん、ここに「やまつ辻田」の山椒をどっざりふりかける。また鶏肉があるときは、ツユに鶏肉と九条ねぎを入れ薄口醤油で軽く調味するだけで、関西風の鳥なんばになる。私はこれを経験して関東風の色の濃いなんばはサブに落ちた。なんばといったらこれ。(なんなら大阪のなんばでこの青ネギがたくさん取れたから、ネギの入ったツユをなんばといったと聞いたことがある〉ツユは透明で青いネギ、そばでもツユは透明が好ましい。むろんここに「やまつ辻田」の山椒をどっざりふりかける。エクスタシイだ。



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ミルクフォーマーの比較

November 21st, 2017

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 引き続き完全無欠コーヒーをしている。フレンチプレスなどの金属のフィルターで淹れたコーヒーに、純度の高いMCTオイルとグラスフェッドのギーを入れフォームするという飲み物だ。私は朝起きて「まだ寝たい」と思っていても、このコーヒーを飲むと「たちまち」頭が元気になり、直立稼働が可能になる。これを飲むとその勢いで一日の最後まで精力的でいられる。脳みそのシワの隙間に潤滑油のようにオイルが入ってゆき、動かしてくれるイメージがある。もちろん脳は物理的に動いていないし、油を差す必要も無いはずなのだが。このコーヒーの科学的な?作用については、説明するのが難しいのでシリコンバレーの人が書いた本を読んでほしい。
   本題はそこではなく、このコーヒーを作るための道具だ。コーヒーとオイルは分離するが、クリーミーに混ざった状態で飲むと結構美味しく飲める。そのために私はこういうタイプのハンドタイプのミルクフォーマーを使っている。ベストなプロダクトを見つけるのにこんなにたくさん試した。ほとんど需要のない情報だと思うのだが、一応書いておく。

 


Best :ボデム 他を引き離して圧勝。軸をぶらすことで敢えて空気を含ませる仕組み。温めたミルクをフォームした時に他とは全く違うきめの細かい泡ができた。 2 :IKEA 価格が安い割にパワーがあり、コーヒーとオイルのような溶け合わないものを撹拌するのに適している。パワーでいうとボデムよりあり、温めたミルクをフォームする時にはそのパワーは逆に欠点になる。つまりきめの細かさが出しづらい。完全無欠コーヒーだけをつくるならIKEAがベスト。 3 :KARITA パワーが弱く、コーヒーとオイルを完全に撹拌出来ない。また温めたミルクをフォームしてもきめが荒い。付属のスタンドはなかなか良いのだが。 4 :100円ショップ 製品としては2位のIKEAとほとんど同じだが、3回使うと絶対軸が外れて壊れる。軸は元通りにはならない。3本目を買った時に「ちゃんとしたものを使おう」と決めて研究に入った。壊れないならば一番コストパフォマンスは高い。以前も使っていたがその時はこんなにすぐ壊れなかった気がするのだが。


 

 


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バスルームの研究<3>

November 10th, 2017

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 現在、訳あって大阪にマンションを借りて暮らしています。
 賃貸だと自分の都合良く変えることが出来ない、と思いがちなのですが変えられるところは色々とあります。例えばシャワーヘッド。

 この賃貸マンションのバスルームはちょっと普通と違っているのです。いわゆる欧米風の作りで脱衣と洗面とバスタブが同じ空間にあります。無作為にシャワーを浴びるとそこらじゅうビショビショになってしまいます。浴び方にもよりますが、シャワーヘッドもいけないんです。造りは欧米風のくせに、シャワーヘッドは日本製。やたら「水圧が強い」シャワーヘッドです。なのでシャワーヘッドだけ交換しました。グローエのものがロイヤルホームセンターで4000円ほどで売っていましたので。

 わたしはそもそも強い水圧が肌を叩くのが苦手です。元のマンションもお風呂をリフォームして、空気をたっぷりふくんで雨のように弱い水圧が出せるハンスグローエのシャワーヘッドをつけていました。頭の上から温かくて大きくて柔らかい水の塊をぼとぼと受けると、性的快感に近い心地よさがあります。バスタブはカルデバイの琺瑯にしていました。濡れた裸が触れるつるつるとした温かい琺瑯の感触がとても好きでした。

 また、ガラスブロック張りの素敵なバスルームを持っている知人は「自動湯はり機能があったとしてもバスタブに水栓は必須」と言います。「バスタブの中で脚を伸ばして、つま先に水栓から出る水を受けるときの快感」があるのだそうです。

 話が「水の快楽」に逸れてしまいました。

 話を元に戻すと、このようなタイプのバスルームは水圧の低いシャワーヘッドをつけるべきなのです。リフォーム時に勉強のために読んだ海外のバスルームの本を改めて見ていたら、まさにそのような記載がありました。「バスルームを水浸しにしないためには空気を含んだ水がでるシャワーヘッドを選ぶべきです」と。欧米では構造の都合上、そのようなシャワーヘッドが多いのかもしれません。逆に日本のお風呂はいくらでもビショビショにできます。それもあってか「水圧信仰」も盛んです。強ければ強いほど良いというような人は、大抵海外のホテルに文句をいいます。「水圧が弱い」と。私は弱い水圧が、ロマンチックで好きです。


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バスルームの研究<2>

November 10th, 2017

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 ジョンソン・アンド・ジョンソンのワンデーコンタクトレンズのデザインって素敵だなって思っていました。カラーがいいのです。毎日夫が使うので鏡の前に常備する必要があります。

 今住んでいる家のバスルームには収納がありません。奥行きの浅い棚があるだけです。どうせならと思って「見せる」ことにしました。大きめのガラスの容れ物を探してきて、全てひとつづつのピースにして入れています。くっついたままの姿より可愛らしくなります。ただしこのようなことをしだすとサービスレベルを無駄に上げることになってしまうので、ご注意くださいませ。


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