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95年の映画『Before Sunrise』(94年の夏)

October 24th, 2018

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 泣きながら渋谷のTSUTAYAで『ビフォア・サンライズ』のDVDを買って、週末を一緒に過ごしてアメリカへ行ってしまった彼のマンションのポストに入れた。もう再び会うことは出来ないと思ったからだ。あの時渡ったスクランブル交差点の真上の空の色を今でもはっきり覚えている。『ビフォア・サンライズ』を送った私に彼は『エターナル・サンシャイン』を返した。その彼はやがて夫となり、私たちは子どもも出来ないまま倦怠状態に入り、仕事の都合で物理的にすれ違いが多く、ケンカをするにもFaceTime越しという状況になった。もちろんケンカをしているつもりなのは私だけ。結構可愛かった私も、早くも劣化しはじめ、3ミリのポリープだって出来て、自分だって嫌だけど、自分を綺麗だとは思わない。

 『ビフォア・サンライズ』は、列車で知り合ったふたりの夜明けまでの数時間、つまりジェシー(イーサン・ホーク)がウィーンからアメリカに経つまでの数時間を描いた映画だ。これには『ビフォア・サンセット』という続編があって、9年後にパリで再会し、ジェシーがパリからアメリカに経つまでの数十分が描かれていて、これは公開されてすぐ観た。

 実は、さらに『ビフォア・サンセット』にも『ビフォア・ミッドナイト』という続編があることを昨夜知った。更に9年が経ち、ふたりは双子の女の子を授かっていた。早速『ビフォア・ミッドナイト』を観たら、『ビフォア・サンライズ』が観たくなり、当然『ビフォア・サンセット』が観たくなり、さらにもう一度『ビフォア・ミッドナイト』が観たくなり、そんな夜を明かした。





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まずは主にイーサン・ホークについて





 やはりジュリー・デルピーの力が大きい。
 ウディ・アレンのような一見知的だがその実かなりトンチンカンなダイアローグ。しかも早口。しかも政治的で悲観的。そしてトンチンカン。(わたしはこの手のものが全く嫌いじゃないわけで、この人の『パリ、恋人たちの2日間』もかなりキョーレツで、ビフォア・サンセットに一瞬出てくるジュリー・デルピーの実の両親がガッツリ出てきて変なことを言いまくるシーンなどかなり面白い。)

 イーサン・ホークは”カーペディエムのやつ”、つまり『いまを生きる』を観てからなんか他人と思えない感覚がある。『ビフォア・サンライズ』を初めて観た時は隣に座ってうっとりしてたけど、いまこの映画を見ると、ちょっと自分がこの男子の「母親的な」見方をしていると感じる。ちょっと弱い、印象があるからだろうね。『ブルーに生まれついて』も弱くてかなり良かった。菊地成孔が粋な夜電波で「ヤングアダルト世代の監督と、イーサン・ホークは正しく病んでおり、熱心にラッパの練習をし、真面目にチェット・ベイカーを演じてみせたが、チェット・ベイカーの持つ甘い毒のような悪魔性を全く表現できなかった。単6度キーの低いMy funny valentineの歌声からもそれはすっかりわかってしまう」と言っていたが、私はイーサン・ホークを何故か他人と思えない人なので、この映画もすごく好感を持って観た。でも言われて見れば、イーサン・ホークは全然悪魔的じゃない。むしろクリーンでいることしかできない弱さの印象を与える。そこに私の謎の母性がまた反応したわけだ。

(上記、菊地成孔の話を鵜呑みにして、更に勝手に自分でイーサン・ホークを予断して書いていたが、Ethan Hawkeをフリー検索していてこんな記事を見つけた。やはりだいたいそういう感じだった。『ブルーに生まれついて(原題:Born to Be Blue)』のプロモーションでのインタビュー。Drugs don’t unlock one’s creative potential, they just deal with anxiety, Ethan Hawke said while promoting his latest film, Born to Be Blue, at the Toronto International Film Festival. <中略>“I don’t believe that the drugs helped Chet Baker play,” said Hawke. “I believe that he believed it. There’s another path to get there. Dizzy Gillespie was a family man and had a huge career and played without any drugs.” もちろんそうかもしれないけどさ。それはちょっとプロモーションとしてクリーンすぎじゃないだろうか。ドラッグという観点でガレスピーを比較に出すなよと言いたい。音楽自体を比較してほしい。しかも民主党支持公表者。まあそれは自由なんだけれどもね。)

すぐヤフオクで『ブルーに生まれついて(原題:Born to Be Blue)』パンフを1200円で落札し、勢いよく読み出したが、村上春樹の序文は持っている本からの引用だったし、菊地さんの解説は事前にラジオで聴いちゃってるし、大谷能生の解説に1200円払ったような感じだった。あ、むろんイーサン・ホーク本人のインタビューも載っていたが、海外俳優のインタビューにありがちなとっちらかった感じだった。驚いたことに彼はジャズが結構好きなんだと。ま、それでも無性に『リアリティー・バイツ』が観たくなっちゃっているけどね。むろん『ガタカ』だって観るしね。(後記:観ました。ウィノナ・ライダーかわいすぎです。あとジュード・ロウはいつも本物です。)





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続いて3本の映画について。
映画の説明はしていない。鑑賞した人向けの内容になっている。





Before Midnight





 素晴らしい夜に、と貰った赤ワインが目の前にある。

 遠回しに、未来のことを全て刈り込むような会話だ。本心じゃないとは言わないけれど、いずれ本心になるかもしれない可能性の種を、見つけ出してうまく転がして実が熟したところを右手でもぎ取って、握り潰して床に投げてみせるような。もうそこら中、赤や黄色の実が潰れて飛沫が飛び散っている。けど不思議と不快な香りを発していない。

 相手の心の真ん中をつくような、棘のある言葉だ。けれどポキっと折れるような棘じゃない。その棘は伸び縮みするというか、不思議な温度がある。

 何度も部屋を出て行けるのは、二度と戻れないと思っていないから。安心感を壊すことで生まれる、高まり。別れたいんじゃない。愛されたいんじゃない。愛している時間を延ばしたいだけだ。時間は伸び縮みしない。けれど不思議だ。私を取り巻く時間は、緩やかなゴムのように伸びたり急に縮んだりするのだ。

 セリーヌが今日の私は美しいか?と聞くとき、ジェシーは94年の夏、04年の夏のセリーヌを重ね合わせて昔よりずっと美しいと言う。セリーヌはなぜかそれでは満足できない。私と一緒だ。ジェシーはある意味で94年の夏の夜だけで完結している。男の人は、たった数時間の思い出のような一夜で一生女性を愛せるのか?

 『ビフォア・ミッドナイト』には帰りの便はない。その代りふたりは裸になって94年の夏にタイムスリップしようという話で映画が終わる。衣服は時空を超えられないのだ。

 男女関係は時間がたつにつれて重苦しくなってくる。頭で考えてもしょうがない。軽い気持ちでいれば、風が吹いてふいっと持ち上がった寝癖のような気持ちの先端から、簡単にあの日に帰ることができるのかもしれない。





Before Sunrise



 グリースヘアのイーサン・ホークは記憶よりずっと馬鹿っぽかった。
 立て続けに重なり合うダイアローグに耳を塞がれて、感覚が研ぎ澄まされる。
 唇の香り。革のジャケットの香り、向き合うたびに擦れ合う革の音。髪の毛の香り、しっとりした指ざわり。草の香り、ひんやする背中。何よりもそのときの快感。腰掛けた噴水の、手に残った石の硬さの跡。
 赤ワインの香り、渋く酸っぱい唾液の味。腕や背中に軽く触れる指先の丸い感触、頬に触れたときの掌の匂い。一人乗る列車、背中だけが感じる機械的な振動、触れた窓ガラスの冷たさ。




Before Sunset



『ビフォア・サンライズ』は約束通り朝別れ、ジェシーが空港へ向かいお互い別れるシーンで終わっている。対し『ビフォア・サンセット』はこういう会話でぷっつり切れる。

「ベイビー 飛行機に乗り遅れるわよ」
「分かってる (I know.)」

なんて完璧な映画のエンディング。
踊るセリーヌが暗転してゆくリズムの中に、代わってゆっくりとニーナ・シモンの声がフェイドインしてくる間が完璧。縦長のフォントの間も完璧。

…といってもそう思ったのは実は続編を観た後の昨夜のこと。最初観た時には、このエンディングには色々な解釈があるだろうと思っていた。大人だからお金もあるし、次の便で帰るかもしれない。といったことを。むしろパリに残る選択肢なんてあるだろうかと。(まさにキリンジの『愛のcoda』の世界的な。)そんなことを考えてニーナ・シモンのフェイドインを味わう余韻はなかった。

けど、色々な解釈なんていらなかった、望むようにすればよかっただけのこと。
その先がわかっているから、安心しきって、このエンドロールに浸ることができる。

三作をループのように鑑賞して、このループにエンドがあるならここがいいなと思った。

ああ、やっぱり私は駄目な女性の典型なのかもしれない。けれど、いい女って一体なんだろう。





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02年の映画『セクレタリー』

February 14th, 2017

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 E.エドワード・グレイの書斎に呼ばれた秘書のリーは、幾つかの質問を受けた。カメラは向かって右から回っている。E.エドワード・グレイの眼差しは柔らかく自然でとても「ノーマル」だ。そして質問は非常に「ストレート」で、リーの心をまっすぐに突くものだった。婉曲のない誤解の可能性だってある必要最低限の質問。しかしリーにとってそれはとても、好ましかった。
 その象徴としてのホットチョコレートを境にカメラの位置が変わる。ホットチョコレートはたいそう甘く、スクリーンの前の私の喉を熱く甘く焼いた。そしてカメラは真横に移動する。対等であることの象徴のような構図だ。
 ふたりを繋ぐチョコレートという記号。

 年明けからジェームス・スペイダーの出演作を観あさっていた。日本語訳が入手困難なものやDVD化されていない作品も多く、とりあえず手に入りそうなところはすべて入手して観た。セクレタリーはレンタルは無かったがDVDは販売していたので早くに入手していた。ただ彼のキャリアの後半の作品であり、現在のスペイダーが得意とする役の転機になったキーとなる作品であることを知っていたので、なかなか手をつけられず、ずっと枕もとの本と一緒に置いてあった。

 ある日の夕方、仕事も終えてしまい、ふとセクレタリーを観ようと考えついた。

 SMのエロティックラブコメディというのがこの映画を一言で説明する言葉かもしれない。コメディという表現は時としてとても示唆的な隠喩になる。表現が軽ければ軽いほど、そこに含まれる意義の輪郭がくっきり浮き上がることがある。ただ、その意義を解さない、もしくは全く違う価値観を持つ人には、本当の意味でのコメディにしかならない。そしてその逆の場合、コメディは、大切な大切なものを容れる、憂いを帯びた革張りの箱になる。

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 ホットチョコレートを飲み干したリーは、大きな川にかかった簡素な橋の真ん中まで行き、7年生の頃から親しんだ裁縫セットと絆創膏を勢い良く流れる川の水面にかざして、放った。かわいい蝶や花のステッカーが貼ってある紫色の裁縫箱の中には、自分の身体に上手く傷をつけられるありとあらゆる小さな刃物が入っている。バレリーナの人形の足の先だって、砥石で研げば太ももをつんざくのに最適だった。

 映画全般に渡って、リーは精神的に幼く、あどけなく描かれている。部屋にあるものも子どもじみていて、思春期のままだ。親も過保護だし、”mom”と”daddy”の呼び方だってまるで子どもっぽい。自分の性的な素質にも気づいていない。

 私に言わせれば、自傷行為だけでなく各所で挟み込まれる「水に潜る行為」もマゾヒスティックなフェテッシュだ。

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 弁護士のE.エドワード・グレイは耽美的なサディストで変わり者だった。彼はそんな自分を恥じていただろう。女性をマゾヒスティックな状況に追い込むことでしか自慰ができない自分を。
 そんな彼にとって、リーの幼さは救いになっていった。自分の欲望にどこまでも素直になることと、それを受け入れてくれる存在がいることの心地よさを、認めたい、認めたくない、認めたい…と自問する。

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 自己嫌悪に耐えられず、強引に解雇したはずのリーが戻ってきて、まっすぐな愛の言葉をE.エドワード・グレイに向ける。自分が戻るまで動くなと命じられたリーは3日間デスクに肘をついた「ふたりの愛の体位」のまま動かなかった。

 その無垢で透明なリーの存在で、E.エドワード・グレイは自分の欲望にどこまでも素直になることと、それを受け入れてくれる存在がいることの心地よさを、認めた。それはつまり愛だったということに気づくのだ。
 陳腐な表現だけど、これは愛としか言いようが無い。

 彼は冷たいチョコレートドリンクを片手に戻り、3日前と同じ服で同じ椅子で肘をついたままの彼女にそっとそれを飲ませる。書斎でのシーンと同じくチョコレートが愛の記号になっている。

 ここからはもう、息を止めていなければならないほどロマンチックだ。木製の、中世の耽美的なバスタブにお湯を張って、彼女の髪をゆっくり洗う手つきや、仰向けにした彼女のお腹を円を描くように触れる手の甲を覆った金色の体毛の輝き、枕元の蝋燭を吹き消すときに捻れた背中の筋肉の気配もすべて。

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そして生まれて初めてー
すばらしい感動を覚えた
地球の一部になってー
大地に触れた時ー
彼も愛してくれた

高校はどこ
あなたのママは どんな人?
ママの名前は?
何て書いた?
卒業アルバムの写真の下に
初恋の人は誰?
初めての
失恋はいつ?
どこで生まれたの?

アイオワだ

 この一言が愛の結晶のように輝く。たった一言答えた、生まれた土地の名前が。

 エキセントリックなSM行為の果てにある、高校生が初めて体験する性行為の真似事のあとの会話のような。こんなものに、深い深い愛と敬意を感じた。この映画はスペイダーのE.エドワード・グレイという役柄に対する明確な解釈を軸に撮影が進められたという。監督はスティーブン・シャインバーグ。

 私は同じくスペイダーが主演した96年の『クラッシュ』で感じた深い愛を思い出していた。性的倒錯がもたらす純度の高い愛の結晶。監督はデイヴィッド・クローネンバーグ。

 そしてこれらの作品でみせているスペイダーの、戸惑いや喜びなど相反するものを滲ませた乾いた眼差しを初めて見たのは89年の『セックスと嘘とビデオテープ』だったことを思い出した。監督はスティーヴン・ソダーバーグ。



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グレアムの、数秒間のうちに感情が入れ替わるこの有名なシーンのこの眼差し。ここが全ての始まりだったのかもしれない。


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96年の映画『クラッシュ』

February 14th, 2017

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 自動車が破壊されることに性的興奮を覚えるというフェテッシュをテーマにした変わった作品。こういう際物は必ずしも私の好みではないが、ジェームス・スペイダー主演なのでとりあえず鑑賞した。
結果的にこの映画はかなり面白いものだった。
 車さえクラッシュしていればそれで快感で、相手は性別も問わず誰でもいい。破壊された車に欲情するのだからそれは当然なのだ。しかし、観ているとそこには愛があるということがよくわかってくる。彼らは破壊された車を愛しているのではない。じゃあ何を愛しているんだろう。
 破壊された車によって生まれた性的欲求をぶつけ合う生身の人間同士。その時によって相手は違うし、そしてそれはその時限りかもしれない、でもなぜだろう。そこにははっきりとした形の愛が見えた。不思議な現象なので言葉で説明するのが難しい。眼の前の相手以外のところから性的興奮を得ながら貪るように抱き合う人間をみていると、いわゆるフェテッシュのない「見つめ合って愛し合う二人」よりもより強い結びつきと、深い愛を感じた。
 私は「愛」という言葉を「定義ができない、何かあたたかいもの」として使用している。


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16年の映画『マネー・ショート』

July 11th, 2016

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 2008年のサブプライムローンの問題が本当によく分かった。リーマンショックと言われてるけど、リーマンブラザーズの株価が0円になって破綻した理由をよく知らなかったから。本当に面白い映画だった。映画で観れてよかった。

 しかし、ここ最近のクリスチャン・ベイルの良さは止めようがないようだ。中学の頃に夢中だった『velvet goldmine』では、うだつの上がらないイギリスの田舎から出てきた、赤ら顔のますかき少年役だったのに。この映画での役は、ヘヴィメタルを爆音で聴きながら薄れたグレーブルーのTシャツ、素足でオフィスを歩く医学博士。であり天才トレーダー。こういう役はオイシイ。アメリカンサイコでの役は全く正反対と言っていいけど、それも大好きだ。(アメリカンサイコってハイエンドなスプラッタコメディなので気軽に観てみて欲しい)クリスチャン・ベイルは身体も素晴らしい。今回も何故かプールで泳ぐシーンがあったのだが、あのシーンはベイルの身体を見せるためだけのシーンであり本編に必要だったかはかなり怪しい。

 そして私が大好きなブラッド・ピッドはもっとオイシイ役。元はマンハッタンで名を轟かせたバンカーで、今はゴミ溜めのようなウォール街を嫌悪して、郊外へ移り、木炭と小便で洗浄した土にオーガニックの種を蒔いてサラダを食べ、定期的に腸洗浄をする潔癖な変人。ウォール街での契約や多額の証券の売却など、嫌なことをした後は消毒ジェルで手指を消毒する。彼は銀行への信用がなく投資のチャンスを掴めない若者2人に無償で協力する。ヒゲづらに眼鏡。眼鏡は金縁にブリッジのあるタイプだが極めて繊細で知的だ。オーシャンズシリーズで詐欺のために地震を予告しに来る地学博士に扮したことがあったけど、あの感じをもっと良くした感じと思って頂きたい。

 マネーショートはアメリカ経済の破綻に賭けた投資家たちの話。審査なしで許可が下りる低所得者向けの住宅ローンが多量に出回り、当然不履行が起こり、それでも価値が下がらない証券。格付け組織もカネ絡みなので、その安全性にAAAを付与する。誰しもが住宅ローンの証券は安心と思っていた。実際にはそう簡単な仕組みではなく、ダメな証券を束ね、別の商品として合成され、そう簡単に綻びがわからない仕組みになっていたようだ。ローン延滞などの末端データから、この複雑化したシステムはまもなく破綻するといち早く気付いたのが医学博士にしてトレーダーのクリスチャン・ベイル扮するマイケル。住宅ローンの証券に多額の保険金をかけ始めたのだ。その行為は全く周りに理解されず、安心なものに多額の保険金をかけることは気の触れた行為とみなされる。たしかに異常な行為だったのだ。しかし、その異常な行為が発する不思議な金の香りは3者の嗅覚の鋭い投資家に届き、4件の世紀の賭けが行われたわけだ。
 投資家として、破綻が起こり利益が出ることを願いながら、アメリカ金融が崩壊することを信じたくない心の矛盾。アメリカの熱海でおなじみのマイアミからたらたら流れだす腐った血、食堂で冷めたピザを頬張るときに発する自分では気づかない哀れみ。人は無邪気であればあるほど悲しく、賢ければ賢いほど苦悩するのだろうか。
 そして訪れた2008年の夏。まさにその夏、外資系コンサルファームに入社した私は秋が過ぎて冬になる頃までアサインされる仕事が無かった。あの真夏、長引く研修にうんざりしてた。多発したゲリラ豪雨や、無関心なエアコンの空調の温度を思い出していた。


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ミランダ・ホッブス 弁護士 独身

March 2nd, 2014

IMG_1263  先日不意に、セックス・アンド・ザ・シティ(SEX AND THE CITY)の第1話を見返しました。ウディ・アレンの映画の回でも書きましたが、この時代のニューヨークの垢抜けない暗さが好きです。特にミランダは初期、マニッシュでクラシックな服装をしてます。初登場では、持ち帰り用のサラダランチのブッフェでトングに挟んだチキンを振りかざしながら、男女の関係について皮肉を言ってこちらに視線を定めています。ブラックのジャケットの中に着た、ブルーに細い白のピンストライプのシャツに褐色の赤いリップを合わせています。とてもいいです。

 同じシーズンの別の話で、ミランダがレズビアンの振りをして事務所の上司の家へホームパーティへいくシーンがあります。この時もブルーのシャツに小さなタイを締めて、(短絡的にレズビアンらしくというつもりなのか)マニッシュです。相手のシドという女の子もグレーの軽く羽織る感じのコートに、プルシャンブルーにゴールドの大きい柄の入ったスカーフを引っ掛けています。黒いベリーショートです。

 しかし、よく調べてみるとこれは’98年の作品です。もっと古いかと思っていました。’98はそんなに昔ではないつもりですが。ミランダの周りだけ、やけに古めかしい装いですね。’04のシーズン6で、パリの公衆電話からキャリーがミランダに泣き言を言うシーンがあります。ブルックリンの自宅で朝食を準備をしていたミランダは白い大きな開襟のブラウスに首元にゴールドを合わせています。’04ともなると、周りはかなり洗練されているのですが、白い大きな開襟とゴールドという取り合わせは何とも前時代的でいいです。


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