ムジカのアールグレイ


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 この季節になると、ムジカのアールグレイのアイスティーが飲みたくなります。神戸にあるムジカという紅茶屋さんのブレンドのアールグレイです。かなり強くカルダモンが香り、個性的なブーケのような花の香りです。もともとは元町栄町にあったRAI CAFEというカフェで飲んだのが好きになったきっかけでした。

 

 当時、遠距離恋愛をしていた私はしょっちゅう神戸に行っていました。彼は昼間働いていましたので、ひとりでガード下の中華料理屋さんでお昼を食べて、元町の雑貨屋さんを回りました。
 神戸は東京のどの街とも全然違いました。横浜ですら神戸には敵わない。今でもそう思います。秋の日、トアロードデリカッセンから出てきた、トレンチコートの前をきつくしめたブロンドのショートカットの女性の青い瞳を見た時、私はその情景に釘付けになり、置いてけぼりにされたような気がしました。神戸は言葉で言い尽くせない何かがあります。ただの憧れかもしれませんが。

 

 RAI CAFEは元町の栄町ビルヂングの中に入っていました。はたちそこそこだった私は、焼きたてのスコンとクロテッドクリームもここで知ったのです。もちろん帰り道にikariで中沢のクロテッドクリームを買って帰ったものです。オーナーのMさんは面白い人で、G.グールドやゴダールの軽蔑や、公開したての映画エトワールの世界が好きだ、というような感じでした。Mさんと話すのが楽しくて神戸に行くたびに「行きつけ」のようにしていましたが、ある時から突然私は神戸に行かななくなりました。それ以来一度も神戸を訪れていません。最後にRAI CAFEを訪れた時に、さよならを言うことはもちろん出来ませんでした。

 

 去年の初夏、ふとムジカのアールグレイが飲みたくなりました。濃いめに入れた紅茶を、氷をたっぷり入れたグラスに注いだ時、「ガラン」と綺麗な音がしました。その音で何故か何年か振りにMさんを思い出しました。Mさんに薦められて行った「アンセム」というカフェの名前や、帰り道に立ち寄った三宮のアーケードの暗さと匂い。10年近く前の事です。

 

 カード入れから、当時Mさんから来たハガキを見つけ出して、久しぶりに読みました。思い立ってブリジストン美術館で買ったピカソのカードで手紙を書いてみました。どうしていらっしゃいますか、と。

 

 数日後、Mさんに出したハガキは私のポストに返ってきました。
 不思議と悲しくはありませんでした。
 私はまだMさんに「さよなら」も「お久しぶりです」も言えていません。