幸福の浮遊感


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 大山崎山荘美術館で開催されていた有元利夫展は、人生で幾度もない幸福な時間を私に与えてくれた。幸せや悲しみなどの感情は、できるだけ稚拙な表現で語りたい私である。

 一枚目の作品は『室内楽』だった。人物が7つのあかい玉を弄んでいるというものだった。玉はおそらく音を意味しており、概念を表現したかたちだった。私の息は詰まった。夢中で絵を観た。じっと観ていると、ふと分かったことがあった。この絵の中の、どの線も、あと1ミリでも動かせないということに。完成されすぎているのだ。私の息の苦しさはそこにあったのかもしれない。

 売店で関連書籍を全て購入し、喫茶で紅茶を飲みながら読んだ。読んでいるとぽろぽろ涙がこぼれてきて、かなり泣いた。私の涙は、この画家が夭折したこととおそらく関係していると思う。たった数年の間にどんどん生まれた作品。

 泣いていてもしかたないので、もう一度、ゆっくり観てから帰ろうと離れの山手館へ入った。すると不思議な多幸感に襲われた。それはかなり簡素な多幸感だった。この広くもない空間に、十数枚の有元利夫の絵が掛けてあり、そこに自分がいること、ただそれだけのことをとても嬉しく思った。壁の色、絨毯の色、通路のアーチ、目に入る何もかもが完璧に私の心を捉えていた。冷たい水柱のようなものが腰の下から入って脳天を貫通し、リボンのような光とともに昇天しているような、ファンタジーの世界にいるような心地。セーラームーンが不思議な光の中で変身する時のような感じ。

 泣きつかれた私は、帰り道、国道沿いのお店で、おうどんを啜った。お出汁の湯気は私をあたたかく包んだ。
 そののち買い漁った関連書を読んだ。その中にこういう記述があった。

 

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“僕の絵の中ではいろんなものが、たとえば紅白の玉や花、トランプや花びらなどがふわふわ飛んでいることがあります。花火も空に向かうし、はては人間そのものも宙に浮く。どうして飛んだり浮いたりしているのかと問われれば、僕にとってはそれがエクスタシーの表現だからとしか答えようがありません。《花降る森》を見て、あのひらひら散っている花びらは、とても地面に落ちるとは思えない、方向としては降るふりをしているけれど、あれは永遠にああいう風に漂って、決して落ちてはこないんだと思う、と言った人がいました。そう、エクスタシーと浮遊。音楽を聴いていても、その陶酔感は僕の中で浮遊に結びつく。だから、それを絵として表現したい時、それこそまさに通俗に徹し、臆面もなく文字通り人間や花を「天に昇」らせてしまうわけです。”
 
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 私はあの日、あの展示室で感じた多幸感を思い出し、ぞっとした。まさに私は浮遊していたといっていい。1ミリも動かせないように感じた玉や花びら。概念として存在する具象のあたたかそうでいて冷たい存在。

 板垣足穂と共につくった一千一秒物語の銅版画集の文章を、一生懸命書き写してきたりして来たけれど、もはやどうでも良かった。記憶は身体の奥に残るこの多幸感だけで十分だった。