水を飲むためのグラス


IMG_6747  私には水を飲むためだけのタンブラーがあります。重くて大きくて円柱型で立ち上がりは垂直のガラスのタンブラーです。重くて大きいタンブラーに、飲むための水を入れて、すうっと飲みます。水はこうやって飲むのが一番いいです。

 こうやって水を飲んで気分がよくなると、アントニオ・カルロス・ジョビン(Antonio Carlos Jobim)の『おいしい水(Água de Beber)』をつい口ずさんでいます。面白いタイトルですが、歌詞も興味深いです。ポルトガル語の歌詞では、「愛とは心を苦しめるが救いもする。私は愛を受け入れる」というもので、人にとって水が存在するように、水を愛の隠喩として表現しています。この曲をアメリカ人がアメリカ語に訳したものが大ヒットしたそうです。(このあとの文脈にそなえて敢えて「アメリカ語」と言わせてください。)ここでは「私は花、あなたは水。私を生かすのはあなたの愛」といった調子で、首を傾げてしまいました。その楽観的で翳のない大衆のキャラクターには、「残念だ」という言葉も出ません。人生に翳は絶対的に必要です。それを意識的か無意識的にか消してしまっているのがとてもつまらないです。ポルトガル旅行でファドを聴いてきました。ファドは「宿命」を意味する言葉でポルトガルの民謡です。照明を暗くしたクラブで夜遅くから始まるファドの音色に人生の翳を感じました。『おいしい水』はあくまでも曲調の軽いボザノヴァです。この軽さに潜む暗さがとても好きです。

 水が入ったグラスといえば、伊丹十三さんの『お葬式』は鰻の蒲焼き、アボカード、紀伊國屋のハムの食卓で、菅井きんがお湯割りを作るシーンから始まります。新吉が倒れて置き去りになった食卓で暗いライトに鈍く輝くお湯割りのグラスが綺麗でした。同じく伊丹さんの『大病人』でがん患者の大病人の役の三國連太郎が、医者役の津川雅彦が診察室で飲んでいたブランデーを見て、それの薄いお湯割りを所望するシーンがあります。がんを告知しようとしていた津川は患者に酒を出すのを一瞬迷いながらも、彼にお湯割りを作るのですが、そのシーンがまた、センスがいいのです。手のひらに収まる小さいグラスに電気ポットからお湯を注ぎ、傍らにあったエビアンの1Lボトルで湯をさます。そして自分のコップから1滴だけブランデーを落とし、ペン立ての赤ボールペンをマドラーにしてお湯割りを作るのです。黒ボールペンじゃなく赤ボールペンというのも伊丹さんの演出だと思います。エビアンの水色と赤字のデザインに赤ボールペンが映えています。また同じく伊丹さんの『スーパーの女』では脳天気なオーナーのデスクの上に、苺の皿と並んでヴォルビックが置かれています。『大病人』は93年、『スーパーの女』は96年公開ですが、このころエビアンやヴォルビックはどれだけポピュラーだったのでしょうか。伊丹十三さんが存命していたら、今どんなセンスを先取りしていたのでしょうか。

 水やそれを入れるグラスは、その特性どおり、表現や思い入れで何者にでもなれる非常に透明な存在です。その透明さにいつも憧れています。