COMPUTER HOUSE OF MODE


菊地成孔サンの有料メルマガで配信されているファイナルスパンクハッピーの回想録がそろそろ30になる。このレベルの面白さは久しぶりだ。かつて檀一雄の『壇流クッキンング』を読んだ時、池波正太郎の『食卓の情景』を読んだ時(その後、池波正太郎を網羅しはじめるがこの人の食描写は記憶のコピーペーストで同じ話が多いので途中でやめた。檀一雄に対しても、もちろん同じことをしたがこの人は割に作風に振れ幅があった。リツコの連作は食は出てこないが別の意味でこの人の清廉さを印象づけた。風がふくような白い木綿のような清廉さがこのひとの白眉なんじゃないか)(すいません、こないだ久しぶりに美味しんぼのコンビニ版を読んでいてそこに入っている雁屋哲の美味しんぼ塾を読んでいたので括弧ばかりの文章になる)に起こった「面白すぎてこれ以上時間を進めたくない」現象がある。菊地成孔サンに関しては『スペインの宇宙食』で既にキテいたのだが、有料メルマガの日記は割とフツーに読んでいた。この回顧録は作品としてまとりかけているので、オーラを出し始めた。最初は菊地サンの悪ふざけが始まったと軽く読んでいたが、今じゃキチンとローカルのメモアプリにまとめて読みやすくして、最後に読んだ部分を慎重に被せながら読むスピードを調整してあまり早く読み上げて仕舞わないようにしている。今朝は新潟から東京に向かう上越新幹線で2002年のスパンクハッピーを聴きながらボスの回顧録を読み始めた。しかし何度も読んだ(何度も読み出し箇所が被っているから)箇所が終わる前に、ホワイトアウトしている箇所を通過して車窓から見える景色が真っ白の世界になった。耳からはコンピュータハウスのつんざくような音。病的な音楽。ノイズキャンセリングされた機械的な静寂とホワイトアウトの世界。病的な音楽。私の心のどこかを少しだけ不快にする音楽。けれどケタ違いの弾性を帯びた快感がある。茂木健一郎のクオリアを想像するとき、私はスカッシュをするような長細くて天井の高いトライアンギュラーの空間を想像する。今まさに時速300キロの速さの中にそういう空間が現れたようだった。霞んだ空の雲の間からとろりとした太陽だけあった。だらしなく口をあけながらそれを見つめて不快な音楽に自らを慰めていたが、予期せぬ瞬間、関越トンネルの闇に、その太陽も白い空間もろとも奪われていった。快感の余韻に浸っていたら再び目の前に現れた風景はもう、現実の色を持った群馬県なのだった。


※注
そのあと回顧録を読み進めたら本当にノイズキャンセラーの話が出てきて腰を抜かした。しかしそれは19世紀性と22世紀性をぶつけて現在という20世紀性をぶち壊すという現象説明として、概念としてのノイズキャンセリングという言葉を使用していたのであり、私は狭義の中の狭義もいいとこで新幹線という既にノイズキャンセリングされた空間の中で更にSONYのイヤホンのNCボタンが点灯し車内すらをノイズキャンセリングした状態にいた、という状況で白い空間を見たのだった。