“時々、真夜中に目を覚ますと、彼が紅茶を淹れたり、ポップコーンやプレーンなM&Mを食べていることがあった。彼はプレーンなものが好きだった。私もプレーンな彼が好きだった。彼を愛していたが、私の愛は私をより良い人間にはしてくれなかった。これを言うのは嫌なのだけど、私はプレーンではなかった。過剰なのだった。”
ーこれは、ダイアンキートンが語るアル・パチーノ
街を歩いていたら、ショウウインドーに結婚式の写真が額に入って飾られていた。何のお店か一瞬分からなかったが、よく見るとそこはひどく古ぼけたテーラーだった。この結婚式は、ドン・コルレオーネの三男のマイケルが逃亡先のシシリーで出会ったアポロニアという女と結婚したシーンだった。黒いアルファロメオで乗り付けて強引に求婚をするシーンや、そのアルファロメオがアポロニアごと爆発するシーンなど、回想シーンで流れるシシリーの音楽を身体に纏っていると、とろけてしまいそうになる(それはゴッドファーザーⅡの中盤からやや唐突に始まるロバート・デ・ニーロによる移民初期のシーンも同様だ)。
これはごく自然な流れと言って良いと思うが、私はゴッドファーザーでアル・パチーノとロバート・デ・ニーロの虜になり、シチリア系マフィア系の映画を観漁った。(持ち前の真面目さからシチリア系アメリカ人監督マーティン・スコセッシ絡みも虱潰しにしていったのだ、ストーリーやキャラクターが酷似している部分でどのシーンがどの映画か分からなくなってゆき、スコセッシラインから外れようと思っていたところに、ふと正面衝突したタクシードライバーにノックアウトされるのだが、これはまた別のときに)
観れば観るほど、デ・ニーロは無口になってゆき、パチーノは孤立していた。周囲の(柔軟さからくる)複雑さから取り残されているような感覚。目的のもの以外を何も必要としておらず、二兎を追うということがない。しかも彼らはいつも決まってファミリーとトマトソースのスパゲッティを大鍋からとりわけている。
そんな時に読んだダイアン・キートンの自伝に最初の文章が書かれていた。ちょうどゴッドファーザーⅢの撮影時、アル・パチーノとダイアン・キートンの交際はもつれていた。修復不可能な恋愛の最中には冷静になる瞬間が多い。楽観的では無いが、不思議と悲観的でもなく、妙にプレーンな発想が出やすいのだろう。
真夜中にひとりでM&Mを食べていたアル。彼はひどく孤立していたかもしれない。けれど、まだ夜明けも遠い真っ暗な真夜中、彼女には彼が眩しかったのだろう。事実、文字を通して想像している私にも、その姿は眩しく目が痛いほどだった。
なぜだろう。頭のなかで、M&Mを奥歯で噛み砕いてみたら、砂を噛む思いがした。
バリエーションや変化への柔軟さなんて必要無いのかもしれない。
時の中に光が溶け込み、柔らかく曲がり、更には可逆となり、何もかもを可能にしている時代で、「不可能でありたい」と出し抜けに思った。
ダイアン・キートン的な人間、私自身もプレーンではなかった。これを言うのは嫌なのだけれど。
