芸術と感情の記録」カテゴリーアーカイブ

『愛はなぜ終わるのか』

March 21st, 2017

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 三連休の最後の日だった昨日の夜、私は機嫌を悪くして、夫を色々と責めた。今思えばいつもそうだったけど、日曜日の夜や月曜日の朝、別れの時間が近づくと私はいつも機嫌を損ねた。仕事も無く子どもいない私にとっては、夫が全て。そんな風に、鉛筆の芯の先を細く細く削るようにしかものごとを考えられなくなる時がある。一晩たって反省しても、もう彼はいない。
 私は、頭でものごとを考えることが大嫌いだ。いや、正確に言うと自分にそうなるように推奨している。学生時代に私はサルトルとボーヴォワールの恋愛について研究し卒業論文を書いた*1。長い長い研究の結果書いた論文の結論をこのように締め括った。「現代の女性は放っておくと理性が強く出てきてしまい、いい女であろうとする。その傾向は女を不幸にする。現代の女性は努めて万事感情に身を任せるべきだ」と。22歳の私はその時からずっと、特に恋愛に於いて、そのようにやってきた。
 結局昨日の夜、口論は中折し、夫は「これを読んだらいいよ」とひとつの結論としてこの本を私に手渡した。「男女は違うから放っておくと4年で別れるようになっている」極端に言うとそういうことが書いてあるらしい。もちろん彼は結婚4年目の我々もじきにそうなる、ということではなく、頭で分かっていれば乗り越えられるから、ということが言いたいのだ。私は手渡された本をぱらぱらとめくって、そばのコンソールに置いた。その手のことにあまり興味も持てなかった。
 一晩たってふとコンソールを上の本に目をやると、本の上にはペパーミントのフリスクが置かれていた。きっと夫が出掛けに無意識に置いたんだと思う。そのフリスクを見つめていたら、なんとなくもう少しやっていけそうな気がしていた。ミントの冷たい香りのするあたたかい息を感じたからだ。






*1 ボーヴォワールという人は、世界初の女性知識人と言われている。そしてサルトルは言うまでもなく実存主義を提唱した哲学者だ。サルトルはひどい斜視で汚い歯並びをしており背も低く、とてもじゃないけどハンサムとは言えなかったが、死ぬほど頭が良かった。ボーヴォワールは自分が賢いことを認識していた。アグレガシオンを次席でパスした彼女にとって、自分に釣り合う相手は、それを主席でパスした彼しかいなかった。サルトルは実存主義を振りかざして狡いことをたくさんした。(少なくともサルトルの行動は私にはそう見える)サルトルも彼女のことをわかっていて「ぼくたちは双子(ソウルメイト)」と囁き彼女を自分のものにした上で、投機や実存の証明として死ぬほど女遊びをする。ボーヴォワールは彼の思想について行くため、それらを全て頭の中で処理しようとした。その結果は悲しいものだった。

 

 


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COMPUTER HOUSE OF MODE

March 8th, 2017

菊地成孔サンの有料メルマガで配信されているファイナルスパンクハッピーの回想録がそろそろ30になる。このレベルの面白さは久しぶりだ。かつて檀一雄の『壇流クッキンング』を読んだ時、池波正太郎の『食卓の情景』を読んだ時(その後、池波正太郎を網羅しはじめるがこの人の食描写は記憶のコピーペーストで同じ話が多いので途中でやめた。檀一雄に対しても、もちろん同じことをしたがこの人は割に作風に振れ幅があった。リツコの連作は食は出てこないが別の意味でこの人の清廉さを印象づけた。風がふくような白い木綿のような清廉さがこのひとの白眉なんじゃないか)(すいません、こないだ久しぶりに美味しんぼのコンビニ版を読んでいてそこに入っている雁屋哲の美味しんぼ塾を読んでいたので括弧ばかりの文章になる)に起こった「面白すぎてこれ以上時間を進めたくない」現象がある。菊地成孔サンに関しては『スペインの宇宙食』で既にキテいたのだが、有料メルマガの日記は割とフツーに読んでいた。この回顧録は作品としてまとりかけているので、オーラを出し始めた。最初は菊地サンの悪ふざけが始まったと軽く読んでいたが、今じゃキチンとローカルのメモアプリにまとめて読みやすくして、最後に読んだ部分を慎重に被せながら読むスピードを調整してあまり早く読み上げて仕舞わないようにしている。今朝は新潟から東京に向かう上越新幹線で2002年のスパンクハッピーを聴きながらボスの回顧録を読み始めた。しかし何度も読んだ(何度も読み出し箇所が被っているから)箇所が終わる前に、ホワイトアウトしている箇所を通過して車窓から見える景色が真っ白の世界になった。耳からはコンピュータハウスのつんざくような音。病的な音楽。ノイズキャンセリングされた機械的な静寂とホワイトアウトの世界。病的な音楽。私の心のどこかを少しだけ不快にする音楽。けれどケタ違いの弾性を帯びた快感がある。茂木健一郎のクオリアを想像するとき、私はスカッシュをするような長細くて天井の高いトライアンギュラーの空間を想像する。今まさに時速300キロの速さの中にそういう空間が現れたようだった。霞んだ空の雲の間からとろりとした太陽だけあった。だらしなく口をあけながらそれを見つめて不快な音楽に自らを慰めていたが、予期せぬ瞬間、関越トンネルの闇に、その太陽も白い空間もろとも奪われていった。快感の余韻に浸っていたら再び目の前に現れた風景はもう、現実の色を持った群馬県なのだった。


※注
そのあと回顧録を読み進めたら本当にノイズキャンセラーの話が出てきて腰を抜かした。しかしそれは19世紀性と22世紀性をぶつけて現在という20世紀性をぶち壊すという現象説明として、概念としてのノイズキャンセリングという言葉を使用していたのであり、私は狭義の中の狭義もいいとこで新幹線という既にノイズキャンセリングされた空間の中で更にSONYのイヤホンのNCボタンが点灯し車内すらをノイズキャンセリングした状態にいた、という状況で白い空間を見たのだった。


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こらえのきかない人間

February 23rd, 2017

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 ハムステッドティーのティーバッグのカモミールを淹れて届いたばかりの『サザビーズで朝食を』の封を破いて、しめしめしめと目次を繰って序文をさらっていると、まさにこれは私がずっと知りたかった内容が書かれているぞ、という輝かしい予感に襲われた。作家や芸術に関わるその周辺の人に、私が必ずする質問の一つで、答えの無い質問だ。「絵画の価値って何が決めるの」。この本ではただこの一点に関して”恥知らずと謗られるほど勝手気ままに巡って見てゆく”らしいのだ。大きめの陶器のマグからは真っ白い紙片がぶら下がっていて、そこには非常に美しい細さの黒いアルファベットで”HAMPSTEAD TEA LONDON”とあり、それは本の表紙のアルファベットよりも数段美しいので、とにかく嬉しくなってしまう。
 ここまで来ると、もう何か書きたくて仕方なくなってくる。上の段落ほどの文章はもう頭にできてきてしまっていて、活字を読む目がおぼつかない。パタンと勢いよく閉じた本を傍らのコンソールに置いて、先程帰ってきて放り投げていたカバンからMacBookを取り出して書き出してしまうのだ。書き出す前に大きく一口カモミールティーを啜ったせいで、タイトルがこうなった。カモミールの鎮静作用で幾分冷静にこの状況を見たのだ。「書くという事は、どんな状況があろうと自分にとって良いこと。」という考えが哲学の先生に習って小論文を書いていた高校生のころから染み付いてしまっていて(その先生という人はニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を寝る前に毎晩読んでいて、もう100回以上は軽く通読した、君らも何か一つ作品を決めて生涯に渡って読むがいい。と指導するような屈託のある人物で、私はある時、水道の蛇口から水が出るように瞬く間に書き上げた小論文が、「羨ましいほど鮮やか」とその先生に絶賛されたもんだから、自分は軽くK大の文学部に入れて軽く小説家かジャーナリストになれると思い上がったのだが、K大には落ち、もちろん今そのどちらにもなれていない)、書きたいという欲望は何をおいても最優先されてしまうようだ。そのせいで、届いたばかりの本の序文のほんの数行を読んだだけで天にも昇る心地になり、もう感想めいた文章を書き出してしまう。
 カモミールの鄙びた香りが優しく私の肩に手を置いて教えてくれるだろう。あなたはこらえのきかない人間なのだと。


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CEZANNNE

February 2nd, 2017

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 96年の芸術新潮のセザンヌ特集を先日代官山蔦屋のラウンジで読んで、腰が抜けるほど面白かったのですぐ入手した。今日帰宅すると届いてたので、ねこに餌をやって自分は食事もせずに、適当にどぼどぼとと、ベリーベリーウェットなマティーニを作って、今日買ってきた梅栄堂の開運香ってのを焚いて読んでたら、異常なまでの多幸感に満たされた。元来些細なことで多幸感を得やすい簡単な人間である私だが、ちょっと説明がつかないほど愉しい。それは雑誌の記事のせいなのかヴェルモットの香りなのか、この煙い好文木の幻想かわからないけど、これは学生時代アムステルダムのコーヒーショップで感じた多幸感に匹敵する勢いがある。ちなみに私を幸せにさせた芸術新潮の一節はこんなものなのである。

 ールドンが持っていたこのちょっとくすませたような不透明(オパック)なかんじでかいている《すわる男》、背景の色、実におしゃれでしょ。
 ージョンヌ・ブリアンにライト・レッドを入れた色ね。フランスのエスプリの色。それから、モディリアニに通じてゆく人体ですよね。また、空間もすごい。うしろのカーテンだって引力によってたれてない、完全に構成的。そして右上すみの三角形。何をあらわしているかよくわかんないけど、左の机の斜線に対して、つり合いをとってる。ほとんど構成的。
 (中略)色彩が調和するにしたがってデッサンも明確になるーそうセザンヌは語っている。色が充実すればするほど、形体はヴォリュームをそなえてくっきり浮かび上がってくるというのだ。

 こういうものだ。


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原宿ぎらい

January 30th, 2017

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 身体に鎖を巻き付けた女の子みたいな男の子と、ネオンカラーの前髪に綺麗な色の口紅を塗った男の子みたいな女の子のための町だった、原宿。神宮前は既視感に溢れて詰まらないを通り越して苦痛になる。表参道のブランドショップの佇まいもひどいものがある。同じ東京の、けやき坂などとは比べ物にもならない。青山と呼んだとしても、どうにも救いがたく。

 私は月に2回、夫が原宿で散髪をするのに付き合う。渋谷ランプで降りて、青学の横を抜けて青山通りに出て表参道の交差点を左折して原宿のラフォーレ交差点で夫を降ろす。彼は交差点を渡り、所謂「フォンテーヌ通り」にあるサロンへ向かう。

 私は大抵、京セラビル付近の明治通りのどこかの駐車場に車を入れて、その辺をふらふらする。目黒に住んでいた頃は、感じなかったが、郊外へ引っ越してからこの時間が非常に苦痛になってきた。原宿、神宮前、表参道、青山に行きたい場所が一つもないからだ。性格上、目的が無いことがまず耐え難く、そしてくだらないことが大嫌いだ。そんな人間が表参道をフラフラできるはずもなく、特に消耗品の買い足しなど何の目的もなかった今日は息が苦しくなるような心地がし、逃げるように山手線の線路をくぐって渋谷方面へ向かった。
 渋谷の匿名性の中に居た方がよほど良かった。

 原宿から渋谷までの明治通りも、線路側、つまり原宿を背にして右側の歩道のほうがいくぶん精神的にましなのだ。反対側の歩道は表参道のブロックに接しているのでその分だけ嫌味な圧力がある。

 ガードを抜けてファイヤー通りを渡り、渋谷駅の方へ歩いていた。蔦屋へゆけば好きな映画のことを考えることに集中できるし、CDコーナーだってあるし。と考えていたが、公園通りを渡る少し手前で身体がそれ以上駅に近づくことを拒絶した。仕方なくガードレールに腰をもたれさせ、何も考えず、心が何を求めているのかを感じることに集中した。心はとにかく人混みを避けたいというふうな感じだったので、仕方なく右に折れて神南の中へ入っていった。確かに人は少なかった。トーアの店先にはネオンカラーの化繊が幾つも立てかけてある。視線を上げるとフライデーズがあり、一瞬原宿を思いださせた。頭の中でカチンと小さな音が鳴る。避けるようにすぐ左へ降りてゆけば公園通りに出るはずだ。そうだ。パルコの地下の本屋へ行けば、どれくらいかましだ。と少し心が晴れたところでGAPのビルが目に入ってきて、私の心は釘付けになった。

 GAPというフレイズのシンプルさ、極めて細い、あの有名なフォントの美しさ、それを強調するように配置したGとAとTのあいだの間。紺の青の濃さ、清潔さ、ストレートな表現にくらっときた。私はGAPの洋服を着ないが、GAPが世界的なブランドになり得たことを、ごく当然のように思った。それくらいこの3文字は良かった。しばらく呆然としてビルを見つめていた。ちょうど公園通りは車の通りもまばらだったから、渡って近くで見たあと、戻って引きで見物したりした。

 心ゆくまでGAPを見て、そのままパルコへ向かうと様子がおかしい。
 パルコはなくなっていた。スペイン坂の上でしばらく呆然とした。坂を下る勇気は当然なまでに持ち合わせていない。

 こうなったらもう、NHKを抜けて原宿駅へ抜けるしかなかった。それが今の私には一番いいはずだ。原宿駅へつく頃には夫の散髪も終わり、ちょうど良く合流できる。そんな風に思った。勤労福祉会館でトイレを借りた。クリーム色のタイルにクリーム色のタンク。隅っこに可愛い女の子の絵のグラフティー。”cheer up”と書き添えてある。

 幸い今日は暖かい。

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