北大路翼の俳句


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5年間のインスタ廃から抜けインスタ嫌いを自称してはや2年1
ブログ更新やイベントなどの告知に使うのでアカウントは消していないがアプリは消したのでロム専でもない。

 

インスタをやめると生活に品性が戻った。
しかし写真を撮り(デジタル一眼を使って撮影していたので撮影にもある程度の工数を割いていた)、文章を書く(短いものはその場で書いていたが、後半はしっかり考えて編集して書いていた)ことをしなくなったことで、次なる問題が出てきている。

 

独自ドメインのブログも持っている(ココ)。インスタと併用したいた時は棲み分けに悩んでいたが、今より更新回数は多かった。今はインスタをしていないので棲み分けに頭を悩ますことはないはずなのに更新をほとんどしていない。
このことは私を少しづつ悪くしていた。

 

高校の頃の倫理(哲学)の先生2に小論文の書き方を教わって以来「書くという事は、どんな状況があろうと自分にとって良いこと」という刷り込みがある私にとっては、逆の言い回しをすると「書かないこと、はどんな状況があろうと自分にとって悪いこと」となる。しかもその悪はウイルスのように私の細胞の中で活性化して繁殖しているようなのだ。

 

『アウトプット大全』3という柔らかめのハウツー本を読んだ。表紙からして相当柔らかいし、怪しいのでこの手の本は常に毛嫌いしている私だが、自分の中にいるウイルスが繁殖して蔓延しているのをどうにも御しきれず、薬代わりになるかもと購入して読んだのだ。内容は素晴らしいものだった。特筆するのは、SNSよりも独自ドメインのブログに書く方が良いという意見だった。これはインスタ嫌いには嬉しい意見。ソーシャルメディア(ここではFacebookと比較)を使うよりも5倍シェアされやすく、検索エンジンにも引っかかりやすく、自分で広告を貼れる、など技術的な面がその理由である。
しかし、アウトプット大全を読み終えてから1年が経っても私は書かなかった。

 

そんな私が再び書こうと思ったのは北大路翼の俳句を知ってからだ。

 

アウトロー俳句、なんて言われ、同じく稀代のアウトローでゴンゾーである石丸元章サン4と「屍派」を結成。歌舞伎町をぶらぶら歩きながら酒を飲みながら煙草をくわえながら小さな短冊に思いつくままに書く17文字の世界に頭の中が痺れた。シナプスがまるで謳うイルカみたいだ5、そしてニューロンの大発火6だ。

 

今、私は佐々木健一氏の『美学辞典』7を通読しながら基礎の知識を学んでいる8。哲学が生まれた古代ギリシア時代にはもう「美」についての議論がたくさんあり、その後「美」の概念は変遷し、特にロマン派の時代を経て今の「美」という概念が方向づけられた。といったような哲学の基礎のことを扱う。

 

そんな勉強の最中の「歌舞伎町60分100本勝負」9は衝撃だった。まさにこれぞ私の思う「美」であり「芸術」であり理想の形だった。むろん作品自体も、正面から直視できないほどの「真」だ。

 

 

* * *

 

 

「美」の定義のひとつに「端的な完全性」というものがある。そのものが何であるかを知らなくても、知識を度外視しても、それが立派だとか見事だとかということを「たちどころに」「直感的に」知覚するとき、私たちはそこに「美」を認める。

 

そのように知覚された「美」は「ことばにならない」ものだが、なぜ立派なのか、見事なのかを言葉によって捉えたくなるような欲望を引き起こす。作者の手から離れた作品には、見る者を動かす力が潜んでいる。優れた作品は自らをより良く、より長期に渡って評価されるように望むフシがあり、また自らを展開させようとする力をはらんでる。

 

私が2018年に大山崎のアサヒビール記念館で有本利夫の絵を観たときの強烈な体験10を構成する一部は、この作品がもつこの力によるものだったのだろうと省みる。私が感じた「喉まで出かかっている感じ」「あと少しで思い出せそうな気持ち悪さ」「言葉が出てこないのに胸がなにかの感覚に支配されている感じ」、それでいて明確な予感をもっている感じ。この全ては作品が持つこの力のせいだったんだろう11

 

優れた作品が例外なく持つこの「わたしのこと語りたくなってきたでしょう。なさいよ。」の挑発に乗ろうじゃないか。彼らは「語られることで磨かれる」ことを待ってる。磨いてやろうじゃないか。そしたらいつか、そこにボロボロになった布切れを片手に汗をかいて、瞠目結舌としたわたし自身が映し出される瞬間に立ち会えるだろう12。エクスタシイだ。

 


 

おたのしみ脚注

  1. 2018年3月自身のアカウントにおいて詠んだ「 #小さなハートマークの押下ひとつ #すばやく利き手の親指で #身体流れる前に 」によってインスタ嫌いを示唆した
  2. 当ブログ記事『こらえのきかない人間』に登場する『ツァラトゥストラはかく語りき』を寝る前に毎晩読んでいて、もう100回以上は軽く通読した先生のこと。
  3. Amazonで見る
  4. 大好きな作家。『スピード』はシンプルな純文学です。先日AY子に石丸さんと大島てるの「事故物件ナイト★」というイベントに誘われて二つ返事でOKしたのだが、それが夫の誕生日の夜だったことに気づきAY子に「夫の誕生日だけどいいよね?」と話すと「それはだめ。ダーリンの誕生日はドラマチック・セックスの日だから」と言ってきた。ドラマチック・セックスはしないと思うけど、「夫の誕生日に夫を家に置いて『事故物件ナイト★』にロフト行くということは、結果的にカエちゃんが事故物件って事になってしまうということ」に気づき行かなかったのだ。(今調べたら、結果的にコロナ感染拡大による外出自粛要請で無観客で配信したみたい。だったら夫の誕生日を事故物件ナイトで祝えたのに)ちなみに、大島てるとは本邦唯一の事故物件公示サイトを運営する男性。お祖母様の名前を名乗っている。AY子いわく「話は的確だけど面白いとは言えない」。東京大学経済学部卒業・コロンビア大学大学院中退だからね。処理能力が異常に高いんでしょう。歌舞伎町などの炎マークが重なる箇所に思いを馳せ何が起こったのか想像するのが楽しい。
  5. 岡村靖幸『あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう』において体育館でバスケをする男子のバッシューがキュッキュと鳴る音を岡村サンはこう表現した。Youtubeで観る
  6. 茂木健一郎『脳とクオリア』を通読中。Amazonで見る
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  8. 先日値段も見ずにレジに持ってってぶっ飛んだという、アーサー・C・ダントー著『ありふれたものの変容』の訳者であった松尾大氏が東京藝大の美学概論の授業で使用していた教科書。東京藝術大学美学研究室の授業案内のページに「美と芸術についての基本的知識の習得と、基本的問題についての思考能力の養成」のため本書を選んだとある。この本はかなり使える。Amazonで見る
  9. Youtubeで観る
  10. 当ブログ記事『幸福の浮遊感』 にその時の体験が書かれている。
  11. ベルクソンの「力動的図式」の理論。作品の中にある萌芽のような力動性は、芸術家に展開させて現実化させることを促す。芸術家にとってこの萌芽は「思い出せない名前」のような漠として捉えられないものでありながら明確な予感をもったもののように感じさせる。(『美術事典』P.76「図式」)そして、作品の中にある萌芽のような力動性は鑑賞者にも作用する。鑑賞者をして作品の美を言葉で表現せしむ。その関係性こそ、芸術が「創作から鑑賞にいたるすべての位相が創造性によって彩られた現象」であるということの所以になる(パレイゾンの形成性)。(同書P.98「創造性」P.114「かたち」)ベルクソンの力動的図式はこの方の論文の7ページ〜8ページ目あたりに説明がある。創造性を軸とした論文で面白い。
  12. 種に水を撒いて育てれば萌芽して、いつか花が咲き、その花は枯れても、私の中に残り消えないだろう。アリストテレスの『自然学』では、ここで言う種を「デュミナス」(むろんダイナミックの語源)、花を「エネルゲイア」(むろんエネルギーの語源)、私の中で昇華され観念として残ったものを「エンテレケイア」といった。この最終形であるエンテレケイアこそ生命体の活力・生命力で、非物質的な原理であるという。エクスタシイに深く関わることが予感され、追求のために茂木健一郎の『脳とクオリア』を読んでいるがかなり難しい。